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ヤクルト | 広島 | 大洋 | 阪神 | 中日 | 読売 | ドラフト概要 |
近鉄 | ロッテ | 阪急 | 太平洋 | 東映 | 南海 | 選択方法 |
西鉄が太平洋クラブに譲渡され、球界が揺れ動いた年。甲子園球児では仲根正広(日大桜丘)、大学生では山口高志(関西大)に注目が集まった。 ●センバツ優勝投手・「ジャンボ」仲根正広(日大桜丘高)は近鉄へ 日大桜丘高のエースとして春・夏甲子園へ出場。春のセンバツ大会では193センチの長身から投げ下ろす速球を武器に勝ち進み、決勝へ進出。兄弟校対決となった決勝戦では、仲根が日大三高を2安打完封シャットアウトし、日大桜丘高を優勝に導いた。 夏の甲子園にも出場し、高知商高と対戦。”優勝候補”と期待が大きかったが、延長11回、1死2、3塁からスクイズで2点を取られ、初戦で敗退した。 仲根は193cmのビッグな体から、「ジャンボ仲根」とよばれ親しまれた。長身から投げ下ろす速球も魅力だが、高校通算打率.500を越える打撃を高く評価する声も多かった。 ドラフト会議では近鉄が1位指名。指名後、「パは人気もないし、リーグがぐらついているので・・・」と拒否も匂わせたが、粘り強い交渉の末、入団。プロでは1年目から登板機会に恵まれ、3年目には完封勝利を飾るも、肩を壊して野手転向。1988年に引退。 プロ引退から7年経った1995年8月15日、おりしも甲子園真っ只中の時期に、肺がんにより逝去。 ●社会人ナンバー1・新美敏(日本楽器)は東映へ PL学園高〜日本楽器。PL学園高時代は高校三年夏の甲子園へ出場。準々決勝で小川清一(1970年阪神6位)がエースの大分商高、準決勝で大北敏博(1970年巨人2位)の高松商高を抑え、PL学園高を準優勝に導いた。 高校時代はそれほど球は速くなく、しかも172cmと小柄で威圧感に欠けるのがプロに敬遠され、ドラフト会議では指名されず、社会人・日本楽器へ。日本楽器入社後、めきめき力をつけ、都市対抗野球で橋戸賞を受賞。 プロでは、入団1年目に12勝をマークし、新人王を獲得。 ●六大学の安打製造機・長崎慶一(法政大)はいの一番くじの大洋へ 北陽高〜法政大。北陽高一年生のときに夏の甲子園へ出場。一年生ながらレギュラーでスタメン出場し、一回戦では二本の安打を放った。 1971年ドラフト会議で阪神に8位指名されるも拒否し、法政大へ進学。法政大では、東京六大学史上初の、春・夏連続首位打者になった。 プロでは1978年5月20日にサイクル安打を達成。1982年には首位打者のタイトルを獲得。 ●無名の大物・鈴木孝政(成東高)は指名順位3番目の中日が指名 高校二年夏の千葉大会では41回無失点をマークするも、東関東大会で竜ヶ崎一高に敗退。高校三年夏の千葉大会は銚子商高の根本隆(日石〜1974年大洋1位)と壮絶な投手戦の末、0−1で敗退し、甲子園出場はならなかった。 プロでは入団二年目に頭角を現し、ドラゴンズの抑えの切り札として活躍。最優秀救援投手2回(1976年、1977年)、最優秀防御率1回(1976年)、最多セーブ1回(1975年)のタイトルを獲得。 ●大学1・山口高志(関西大)はプロ拒否し、松下電器へ 大学日本一投手。171センチと小柄だが、「村山二世」の異名通り、全身を使って投げる快速球は、「10勝は堅い」と、プロのスカウトも太鼓判。 しかし松下電器に内定し、ドラフト前より早々とプロ拒否宣言。「1%でも可能性があれば・・・」と拒否覚悟でヤクルトが4位で指名したものの、山口は拒否し、予定通り、松下電器へ入社。 ●その他、指名された主な選手は 投手では、1976年に最多勝を獲得した池谷公二郎(広島1位)、1978年に最高勝率のタイトルを獲得した鈴木康二郎(ヤクルト5位)、通算81勝の井本隆(近鉄3位)。 野手では、1983年に首位打者に輝いた真弓明信(太平洋3位)、オバQの愛称で親しまれた本塁打バッター・田代富雄(大洋3位)、通算610安打の永尾泰憲(ヤクルト1位)、ゴールデングラブ賞を二度受賞した有田修三(近鉄2位)、1975年パ・リーグで打率2位になった小田義人(ヤクルト2位)らが指名された。 |
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♪日本レコード大賞 | ちあきなおみ「喝采」 |
♪最優秀新人賞 | 麻丘めぐみ「芽ばえ」 |
♪世相や流行 | 中国から贈られた上野動物園のパンダが大人気 |
♪流行言葉 | 恥ずかしながら帰ってきました お客様は神様です |
♪社会の出来事 | 日中国交正常化 沖縄返還 浅間山荘事件 |
♪プロ野球の優勝チーム | セ:巨人74勝52敗4引 パ:阪急80勝48敗2引 |
♪プロ野球の最優秀選手 | セ:堀内恒夫(巨人) パ:福本豊(阪急) |
♪春の甲子園優勝校 | 日大桜丘(バッテリー:仲根−常田) |
♪夏の甲子園優勝校 | 津久見(バッテリー:水江−足立) |