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1980年(昭和55年)ドラフト会議 〜ドラフト概要〜


ヤクルト 広島 大洋 阪神 中日 読売 ドラフト概要
近鉄 ロッテ 阪急 西武 日本ハム 南海 選択方法



ドラフト史上屈指の豊作の年。その中でも、原辰徳(東海大)、石毛宏典(プリンスホテル)、竹本由紀夫(新日鉄室蘭)の三人が御三家とよばれ、注目を集めた。


●女子中高生のアイドル・原辰徳(東海大)に四球団が競合
東海大相模高〜東海大。高校1年夏、2年春、2年夏3年夏と、合計四回甲子園へ出場。高校時代は「原親衛隊」ができるほどのスター選手で、高校野球雑誌・「輝け甲子園の星」は、原辰徳の爆発的な人気により発行されたといわれている。

高校卒業時のドラフト会議では、「サッシー酒井(長崎海星)とともに1位指名間違いなし」と囁かれたが、プロには進まず東海大へ進学。大学では通算21本塁打をマークし、大学球界ナンバーワン野手と騒がれた。

1980年ドラフト会議で、広島、巨人、大洋、日本ハムの四球団が1位指名し、抽選により巨人へ入団。

プロでは入団1年目に22本塁打をマークし新人王を受賞するなど、巨人の中心打者として活躍。1995年に引退、現在は巨人の監督として辣腕をふるっている。

余談になるが、高校時代の監督は原辰徳の実父・貢さんが務め、辰徳との親子鷹で話題を呼んだ。貢さんは1965年、無名の三池工業高(福岡)を甲子園優勝に導き、その手腕を買われ、東海大相模(神奈川)の監督へ。

1965年、三池工業高(福岡)の甲子園優勝は、折からの炭鉱不況、1963年11月9日に起きた三池三川鉱・爆発事故の大惨事等、暗いムード一色の大牟田市民に希望を与え、原貢監督ら郷土の英雄を迎える地元での優勝パレードは空前絶後の大フィーバーとなった。

その優勝パレードを見つめていた小学二年生の原辰徳は「野球ってすごいなと思った。あの感動が野球を始める原点だった」。


●実力派・石毛宏典(プリンスホテル)に二球団が競合
市立銚子高〜駒沢大〜プリンスホテル。高校時代は、千葉県大会決勝で、土屋(1974年中日1位)と篠塚(1975年巨人1位)の銚子商業高に0−2で敗退し、後一歩のところで甲子園を逃した。

同年ドラフト会議でロッテに6位指名されるも、これを拒否し、駒沢大へ進学。大学では4年秋にリーグ首位打者になり、有力なドラフト候補としてマークされるが、同年秋に産声をあげたばかりのプリンスホテル野球部へ。ちなみに一期生は、石毛の他に、中尾(専大)、堀場(慶大)、金森(早大)等、豪華メンバーだった。

プロでは、入団1年目に、21本塁打、打率.311の好成績をあげ、新人王を獲得。打って走って守れる選手で、ライオンズのリードオフマンとしてチームを引っ張った。通算成績は、1796試合出場し、1833安打、236本塁打、打率.283。


●甲子園優勝投手・愛甲猛(横浜高)はロッテ1位
横浜高のエースとして、高校1年夏と3年夏の二回甲子園へ出場。高校3年夏の甲子園では、左から投げ下ろす速球とコーナーを突く変化球で、横浜を優勝へ導いた。1回戦ではホームランを放ち、投手としてよりも、打力を高く評価する声もあった。

地元の大洋入りを熱望したが、大洋の1位指名は原(東海大)で、ロッテが単独1位指名。プロには投手として入団するが、伸び悩み、入団4年目に野手転向。通算成績は、1466試合出場し、1142安打、108本塁打、打率.269。


●通算2000本安打を達成した駒田徳広(桜井商高)は巨人2位
甲子園出場歴はないものの、左の本格派投手として有名で、広瀬新太郎(大洋1位)と西村基史(昭和59年日ハム2位)で、関西左腕三羽ガラスと称えられた。

プロ入団後は野手転向。入団3年目に1軍昇格し、プロ入り初打席満塁ホームランと衝撃的なデビューを飾った。通算成績は、2063試合出場し、2006安打、195本塁打、打率.289。満塁本塁打13本(歴代2位)の記録をもつ、異名は「満塁男」。


●プロを拒否しプリンスホテルへ
日本ハム1位の高山郁夫(秋田商)、阪急1位の川村一明(松商学園)、巨人4位の瀬戸山満年(中京)の3人がプロを拒否してプリンスホテルへすすみ、物議を醸した。


●その他、指名された主な選手は
投手では、通算139勝の川口和久(広島1位)、通算81勝の杉本正(西武3位)、通算97勝の山内和宏(南海1位)、通算54勝77セーブの井上祐二(南海2位)、通算35勝48セーブの石本貴昭(近鉄1位)、通算57勝の欠端光則(ロッテ3位)。

プロ通算1824安打を記録し、盗塁王を4回獲得した大石大二郎(近鉄2位)、通算1716安打の高木豊(大洋3位)、捕手のイメージを変えた男・中尾孝義(中日1位)、ゴールデングラブ賞を2回受賞した弓岡敬二郎(阪急3位)らが指名された。





1980年(昭和55年)ドラフト会議の結果

広島
1位 川口 和久 デュプロ 投手
2位 榊原 聡一郎 宮崎日大高 内野手
3位 松林 和雄 柳井商高 外野手
4位 原 伸次 広陵高 捕手
プロ入り後の成績
 
ヤクルト
1位 竹本 由紀夫 新日鉄室蘭 投手
2位 佐々木 正行 大昭和製紙 外野手
3位 宮城 弘明 横浜商高 投手
4位 高仁 秀治 東農大二高 投手
プロ入り後の成績
 
巨人
1位 原 辰徳 東海大 内野手
2位 駒田 徳広 桜井商高 投手
3位 小原 正行 臼杵商高 投手
4位 瀬戸山 満年 中京高 捕手
プロ入り後の成績
 
大洋
1位 広瀬 新太郎 峰山高 投手
2位 堀井 恒雄 大阪商大 投手
3位 高木 豊 中央大 内野手
4位 市川 和正 東海大 捕手
プロ入り後の成績
 
阪神
1位 中田 良弘 日産自動車 投手
2位 渡真利 克則 興南高 内野手
3位 石橋 功行 島根・大田高 投手
4位 山田 和英 大阪商大 投手
プロ入り後の成績
 
中日
1位 中尾 孝義 プリンスホテル 捕手
2位 後藤 祝秀 本田技研 投手
3位 古谷 盛人 熊野高 捕手
4位 長田 克史 日産自動車 内野手
プロ入り後の成績
近鉄
1位 石本 貴昭 滝川高 投手
2位 大石 大二郎 亜細亜大 内野手
3位 花房 健 福岡大 投手
4位 依田 栄二 甲府商高 投手
プロ入り後の成績
 
ロッテ
1位 愛甲 猛 横浜高 投手
2位 武藤 一邦 法政大 外野手
3位 欠端 光則 岩手・福岡高 投手
4位 桃井 進 電電信越 捕手
プロ入り後の成績
 
日本ハム
1位 高山 郁夫 秋田商高 投手
2位 金城 博和 興南高 外野手
3位 木村 孝 近畿大 外野手
4位 清水 信明 東農大二高 捕手
プロ入り後の成績
 
西武
1位 石毛 宏典 プリンスホテル 内野手
2位 岡村 隆則 河合楽器 外野手
3位 杉本 正 大昭和製紙 投手
4位 安部 理 東北高 内野手
プロ入り後の成績
 
阪急
1位 川村 一明 松商学園高 投手
2位 長村 裕之 駒沢大 捕手
3位 弓岡 敬二郎 新日鉄広畑 内野手
4位 西尾 利春 二松学舎付高 投手
プロ入り後の成績
 
南海
1位 山内 和宏 リッカー 投手
2位 井上 祐二 都城高 投手
3位 刀根 剛 敦賀高 外野手
4位 山田 勉 松下電器 外野手
プロ入り後の成績 





1980年(昭和55年)ってどんな年?
日本レコード大賞 八代亜紀「雨の慕情」
最優秀新人賞 田原敏彦「ハッとして!Good」
世相や流行 竹の子族 イエスの方舟騒動
流行言葉 ナウい ダサい カラスの勝手でしょ
社会の出来事 大平首相の急死 長嶋監督辞任と王引退
プロ野球の優勝チーム セ:広島73勝44敗13引 パ:阪急68勝54敗8引
プロ野球の最優秀選手 セ:山本浩二(広島) パ:木田勇(日本ハム)
春の甲子園優勝校 高知商(バッテリー:中西−細川)
夏の甲子園優勝校 横浜(バッテリー:愛甲−片平)