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ヤクルト | 広島 | 大洋 | 阪神 | 中日 | 読売 | ドラフト概要 |
近鉄 | ロッテ | 阪急 | 西武 | 日本ハム | 南海 | 選択方法 |
クラウン身売り、プリンスホテルに野球部誕生、巨人ドラフトボイコット等々、いろいろあった年。 ●江川卓(作新学院職員)は空白の一日で巨人と契約するも認められず 前年(1977年)のドラフト会議でクラウンに1位指名されるが、「九州は遠い」という理由で拒否し、米留学。そして年が明け、この年(昭和53年)の10月12日、江川卓の交渉権をもつクラウンが、西武グループの国土計画に経営権を譲渡し、球界は揺れに揺れた。 江川卓の交渉権も西武に移り、「経営が不安定なクラウンとは違い、大企業の西武だったら入団するのでは?」と、当時のスポーツ紙は報じていた。西武の堤オーナーは、「本拠地を福岡から関東に移す」と公言し、「九州は遠い」という江川の切り崩しにかかる為、球団社長を渡米させ接触を試みるが、江川はこれを拒絶。 そして、11月21日、ドラフト会議の前日に、球界を揺るがす大事件が起きる。巨人は江川の後見人・船田中代議士立会いのもと、突如、江川卓と入団契約をした。巨人は「野球協約では交渉権を得た球団が選手と交渉できるのは、翌年のドラフト会議の前々日まで。したがってドラフト会議の1日前は、交渉権がどの球団にも属さない」と、野球協約の盲点をつき、契約の正当性を主張。これがよく言われる「空白の一日」だ。 しかし当然、連盟もコミッショナーも入団契約を認めず、それに不服の巨人は22日のドラフト会議をボイコットし、結局、巨人不在のまま、ドラフト会議はスタートした。 「江川を指名してもゴタゴタに巻き込まれる。確実に取れる選手を指名したほうがいい」(中日)、「江川を指名して巨人と裁判で争うのは面倒」(阪急)と、江川を避ける球団が多く、新ドラフト方式による初のドラフトで、江川を指名した球団は、ロッテ、近鉄、阪神、南海の四球団。四球団の抽選により、阪神が江川卓の入団交渉権獲得。 これに対して巨人は、「今回のドラフトは無効」、「江川と巨人の契約書申請却下は納得できない」と、二件の提訴状を出す。 野球界だけではなく、日本中が騒然となり、読売新聞の不買運動が起こるなど、巨人パッシングも激化。それでも、「江川との契約を認めないと野球機構を脱退し、新リーグを作る」と、機構側に圧力をかける巨人。 これに対し、当時の金子コミッショナーは、解決策として、阪神と巨人との交換トレードを提案。そして、翌年の2月1日、巨人は当時のエース・小林繁を阪神に放出し、念願の江川卓の獲得に成功する。 自民党の大物政治家までも巻き込んだ”江川騒動”はこれで終結するのだが、かわいそうなのは無念にも江川の犠牲となり、阪神タイガースへトレードに出された小林繁。「同情しないでほしい」といって、潔く阪神に行った彼は、阪神移籍1年目に巨人戦8連勝するなど大活躍し、沢村賞を獲得する。 ●その他、指名された主な選手は 投手では、最優秀救援投手(1983年)に輝いた森繁和(西武1位)、1990年ノーヒットノーランを達成した柴田保光(西武2位)。 野手では、首位打者5回(1981年、1982年、1983年、1985年、1986年)、本塁打王5回(1982年、1985年、1986年、1990年、1991年)、打点王5回(1982年、1985年、1986年、1989年、1990年)などのタイトルを獲得した落合博満(ロッテ3位)、1990年の打点王・石嶺和彦(阪急2位)、通算772安打の高代延博(日本ハム1位)らが指名された。 |
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♪日本レコード大賞 | ピンク・レディー「UFO」 |
♪最優秀新人賞 | 渡辺真知子「かもめが翔んだ日」 |
♪世相や流行 | ナンチャッテおじさん騒動 |
♪流行言葉 | なんちゃって 空白の一日 フィーバー |
♪社会の出来事 | 巨人ドラフトボイコット 新東京国際空港開港 |
♪プロ野球の優勝チーム | セ:ヤクルト68勝46敗16引 パ:阪急82勝39敗9引 |
♪プロ野球の最優秀選手 | セ:若松勉(ヤクルト) パ:山田久志(阪急) |
♪春の甲子園優勝校 | 浜松商(バッテリー:樽井−大塚) |
♪夏の甲子園優勝校 | PL学園(バッテリー:西田−木戸) |