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サンケイ | 広島 | 大洋 | 阪神 | 中日 | 読売 | ドラフト概要 |
近鉄 | 東京 | 阪急 | 西鉄 | 東映 | 南海 | 選択方法 |
1965年7月26日の実行委員会で、12球団の戦力の均等化と、高騰し続ける契約金を抑えるため、ドラフト制採用が決定した。 この制度、「好きな球団に入れない」、「契約金が安くなる」と、選手間には不評で、平松政次(岡山東商)や木樽正明(銚子商)、広野功(慶応大)など上位候補はドラフト前から早々とプロ拒否宣言。 ●夏の甲子園準優勝投手・木樽正明(銚子商高)は東京へ 銚子商高のエースとして、この年の夏の甲子園に出場。準決勝では牧憲二郎(南海1位)がエースの高鍋高と対戦し、9回裏、劇的なサヨナラ勝利で決勝へ進出した。続く決勝戦では、原貢氏(巨人・原辰徳の父親)が率いる三池工高と対戦。惜しくも敗れたものの、大会ナンバーワン右腕と称えられた。 甲子園・準優勝投手に輝いた木樽正明(銚子商)は、東京六大学進学希望の為、プロに敬遠され、1位で名前があがらず、2位で東京へ。プロでは、最優秀防御率(1966年)、最多勝(1971年)のタイトルを獲得、ロッテのエースとして活躍した。 ●春の甲子園優勝投手・平松政次(岡山東商)はプロ拒否 この年のセンバツ大会に岡山東商高のエースとして出場し、1回戦から準決勝までを全て完封シャットアウト。決勝戦で初失点を許したものの、39回連続無失点の大会記録をマークし、優勝投手となった。 そして再び戻ってきた夏の甲子園では1回戦で日大二高と対戦。5回表まで4−1で勝っていたが降雨ノーゲーム。翌日の再試合は0−4で敗退。当時、右肩痛に悩まされていた平松にとって、二日続けての連投はさすがにしんどかった。まさかの初戦敗退だが、プロの評価は落ちることなく、日石に就職が内定し、プロ拒否宣言していたにも関わらず、中日が4位で強行指名。しかしこれを拒否し、予定通り日石に進んだ。 ●「悪太郎」こと堀内恒夫(甲府商高)は巨人へ 堀内恒夫(甲府商高)は高校3年時、甲子園不出場も、巨人に1位指名され入団。プロ1年目に開幕13連勝を記録。新人らしかぬ態度や私生活の乱れから「悪太郎」の異名をもつ。 投げるだけでなくバッティングもよく、1967年には3打席連続本塁打を記録。新人王、最多勝(1972年)、最優秀防御率(1966年)など、数々のタイトルを獲得し、巨人V9を支えた。 ●左の本格派・鈴木啓示(育英高)は近鉄へ 高校2年生の時に阪神から誘われ、高校中退も考えたが、親の猛反対にあい断念。この年のセンバツ大会に出場するも、徳島商に1−3で初戦敗退。 プロでは1年目から10勝をあげ、1967年から5年連続20勝を達成。最優秀防御率(1978年)、最多勝3回(1969年、1977年、1978年)などのタイトルを獲得した。ノーヒットノーランを2回達成。座右の銘は草魂。 ●甲子園で2本塁打を放った藤田平(和歌山市商高)は阪神へ この年のセンバツ大会に出場し、準優勝。2回戦の中京商戦ではセンバツ大会史上初の1試合2本塁打を放ち、プロスカウトに注目された。決勝戦で平松政次がエースの岡山東商に敗退。プロでは1981年に首位打者のタイトルを獲得。 ●その他の有力選手は 投手では、通算92勝をマークした白石静生(広島2位)、「黒い霧事件」で永久追放になった森安敏明(東映1位)。 野手では、阪急黄金時代の不動の四番打者として、本塁打王3回(1969年、1972年、1973年)、打点王3回(1969年、1973年、1974年)のタイトルを獲得した長池徳二(阪急1位)、首位打者(1978年)と打点王(1983年)のタイトルを獲得した水谷実雄(広島4位)、通算511安打の住友平(阪急3位)らが指名された。 |
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♪日本レコード大賞 | 美空ひばり「柔」 |
♪最優秀新人賞 | バーブ佐竹「女心の唄」 田代美代子「愛して愛して愛しちゃったのよ」 |
♪世相や流行 | エレキギターが爆発的に売れる |
♪流行言葉 | しごき フィーリング |
♪社会の出来事 | 日韓条約成立 朝永振一郎ノーベル物理学賞受賞 |
♪プロ野球の優勝チーム | セ:巨人91勝47敗2引 パ:南海88勝49敗3引 |
♪プロ野球の最優秀選手 | セ:王貞治(巨人) パ:野村克也(南海) |
♪春の甲子園優勝校 | 岡山東商(バッテリー:平松−宮崎) |
♪夏の甲子園優勝校 | 三池工(バッテリー:上田−穴見) |