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ヤクルト | 広島 | 大洋 | 阪神 | 中日 | 読売 | ドラフト概要 |
近鉄 | ロッテ | 阪急 | 太平洋 | 日本ハム | 南海 | 選択方法 |
赤ヘル軍団初優勝に沸いた昭和50年、この年は不作の年で、「不況ドラフト」とよばれた。 ●甲子園を沸かせたスラッガー・杉村繁(高知高)はヤクルト1位指名 高校二年春、二年夏、三年春の合計3回甲子園へ出場。高校二年春の甲子園はベスト8進出。二年夏の甲子園は、岐阜中京商の原田末記(1978年ヤクルト1位)に3打数無安打に抑えられ、初戦敗退。 高校三年春の甲子園では、決勝で原辰徳(巨人)の東海大相模高と対戦し、延長13回、自らが打った勝ち越し三塁打で、高知高を優勝に導いた。 高校時代は、身長170cmの小柄な体から長打を連発し、甲子園を沸かせたが、プロ入り後、持ち前の長打力はなりを潜め、プロ12年間でわずか4本塁打に終わった。現役引退後はヤクルト広報担当としてお馴染み。 ●ろく膜炎の篠塚利夫(銚子商高)を巨人が1位指名 高校二年春、二年夏の合計二回甲子園出場。二年夏の甲子園では19打数8安打2本塁打の活躍で、エース土屋正勝(1974年中日1位)とともに、銚子商高の優勝に貢献した。 しかし同年秋にろく膜炎を患い、医師から、「ここ1年間、過激な運動はダメだ」と釘を刺されていた。そのため、「プロは無理だろう」というのが当時の一般的な意見だったが、マスコミ各社もあっと驚く巨人1位指名。たまたま遠征先のテレビで高校野球中継をみて、その素質の高さに惚れた当時の長嶋茂雄監督の強い要望での指名だったとか。 プロでは、1984年と1987年に首位打者を獲得。ベストナイン5回、ゴールデングラブ賞を4回受賞するなど大活躍し、長嶋さんの眼力の高さ?が証明された。 ●上位指名確実視されていた中畑清(駒沢大)は巨人3位指名 安積商高〜駒沢大。高校時代は甲子園へ出場できなかったが、大学で成長し、名門・駒沢大の4番を任され、東都大学リーグ春秋連覇に大きく貢献した。 駒沢大の同僚・平田薫と二宮至の三人で、「駒大トリオ」とよばれ、ドラフト会議での上位指名確実視されていたものの、中畑清は巨人3位、平田薫と二宮至にいたっては12球団どこからも指名がなく、ともにドラフト外で巨人へ入団した。 プロでは明るいキャラクターがうけて、ジャイアンツの看板選手としてファンに親しまれた。インタビューで口癖のように答える「絶好調」はちょっとした流行語に。 通算成績は、1248試合出場、1294安打、171本塁打、打率.290。 ●無名の北別府学(都城農高)を広島が1位指名 九州大会で完全試合を達成してプロスカウトの注目を集めるも、甲子園出場はなく、全国的には無名に近かった。 プロでは、スライダーとシュートを武器に広島カープのエースとして活躍。最多勝2回(1982年、1986年)、最優秀防御率1回(1986年)などのタイトルを獲得。 ●甲子園優勝投手・小川淳司(習志野高)はまさかの指名漏れ この年の甲子園大会へ出場。身長185cm体重85kgと、当時としては桁外れのビッグな体から投げおろす力強いストレートを武器に、決勝までの5試合中3試合を完封する活躍で習志野高を優勝に導いた。 ドラフト会議での指名が確実視されたが、まさかの指名漏れ。その後、中央大〜河合楽器を経て、1981年ドラフト会議でヤクルトに4位指名され入団した。 ●その他、指名された主な選手は 投手では、通算78勝の山根和夫(広島2位)、ロッテに移籍後、素質が開花し、通算51勝の深沢恵雄(阪神5位)、1984年に最優秀防御率のタイトルを獲得した小林誠二(広島4位)。 野手では、1976年度新人王の田尾安志(中日1位)、史上4人目となる「3割、30本、30盗塁」を達成した蓑田浩二(阪急2位)、ロッテに移籍後レギュラーを獲得し、ゴールデングラブ賞を2度受賞した山本功児(巨人5位)、脇役ながら通算104本塁打の長内孝(広島3位)、桐蔭学園高時代に長内孝とクリーンアップを組み、プロ通算1011安打の水上善雄(ロッテ3位)らが指名された。 |
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♪日本レコード大賞 | 布施明「シクラメンのかほり」 |
♪最優秀新人賞 | 細川たかし「心のこり」 |
♪世相や流行 | 広島カープ初優勝で赤へルフィーバー ネッシー騒動 |
♪流行言葉 | あんたあの子の何なのさ 死刑!(ガキデカ) |
♪社会の出来事 | ベトナム戦争終結 エリザベス英女王来日 |
♪プロ野球の優勝チーム | セ:広島72勝47敗11引 パ:阪急64勝59敗7引 |
♪プロ野球の最優秀選手 | セ:山本浩二(広島) パ:加藤秀司(阪急) |
♪春の甲子園優勝校 | 高知(バッテリー:山岡−北岡) |
♪夏の甲子園優勝校 | 習志野(バッテリー:小川−神子) |