| 【YouTube動画・1975年春の高校野球】 プロ入りした甲子園のヒーロー達 |
| 〜原辰徳(東海大相模・2年)のバッティング〜 ■1975年春のセンバツ高校野球大会・決勝戦
【高】山岡−北岡 【東】村中、今井−山口、崎山 動画は高校二年生の時の原辰徳(東海大相模)。当時は原親衛隊ができるほどのスター選手で、甲子園ギャルと呼ばれる少女達を熱狂させた。高校野球ファンにお馴染みの雑誌「輝け甲子園の星」は、原辰徳の爆発的な人気により創刊されたといわれている。 参考 「輝け甲子園の星」創刊日は1975/08/01 高校卒業時のドラフト会議では、「サッシー酒井(長崎海星)とともに1位指名間違いなし」と囁かれたが、プロには進まず東海大へ進学。東海大では通算21本塁打を記録。大学球界ナンバーワン野手と騒がれた。 1980年ドラフト会議で、広島、巨人、大洋、日本ハムの四球団が1位指名し、抽選により巨人へ入団。 プロでは入団1年目に22本塁打をマークし新人王を受賞するなど、巨人の中心打者として活躍。1995年に引退、現在は巨人の監督として辣腕をふるっている。 余談になるが、当時の東海大相模の監督は原辰徳の実父・貢さんが務め、辰徳との親子鷹で話題を呼んだ。貢さんは1965年、無名の三池工業高(福岡)を甲子園優勝に導き、その手腕を買われ、東海大相模(神奈川)の監督へ。 1965年、三池工業高(福岡)の甲子園優勝は、折からの炭鉱不況、1963年11月9日に起きた三池三川鉱・爆発事故の大惨事等、暗いムード一色の大牟田市民に希望を与え、原貢監督ら郷土の英雄を迎える地元での優勝パレードは空前絶後の大フィーバーとなった。 その優勝パレードを見つめていた小学二年生の原辰徳は「野球ってすごいなと思った。あの感動が野球を始める原点だった」。
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